2021年8月27日 金曜日 追悼 みなもと太郎先生(担当編集者より)/ねね
みなもと太郎先生が逝去された。

8月7日午前2時。入院中の病院で亡くなったと奥様からご連絡があった。昨年来、先生は肺がんの療養のため入退院を繰り返す生活を送られていたが、『風雲児たち』の連載再開を目指して前向きに病と向き合われていた。病状は深刻なものだったけれどお会いする度にお元気で、本当にこのまま全快してしまうのではないかと私は思っていた。亡くなられた当日も、朝には売店で新聞を買い、夕方にはコンビニで夜食を買い、夜にはご家族とLINEで楽しくやりとりされるなど本当に普段どおり過ごされ、深夜に息を引き取ることになるとは、奥様にも思いもよらなかったそうだ。「本人も、いつも通り眠ったものだと思ったのではないでしょうか」とおっしゃっていた。

翌8日、先生にお会いしてきた。ながやす巧先生が描いた似顔絵が仏壇にあった。どうにも言葉が出ず、まともなお悔やみも言えぬまま帰ってきてしまった気がする。どうぞ安らかに、という気持ちにいまだになれないのは、先生が私たちに遺してくださったものがあまりに深く、広すぎて、どう悲しめばいいかはかりかねているからだ。

『風雲児たち』は怪物のような作品である。1979年に連載が始まってから40年以上、世代を超えて愛される大ヒット作だ。弊社から「ワイド版」全20巻とその続編である「幕末編」1〜34巻、合計54冊が刊行されている。いずれも三谷幸喜脚本で、2018年にNHK正月時代劇『風雲児たち 蘭学革命篇』が放映、2019年には歌舞伎座で『風雲児たち 月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと)』が上演された。半期ごとに複数冊の、場合によっては複数回の重版を行う作品を私は『風雲児たち』の他に知らない。先生はよく「え〜、でも世の中には何千万部、何億部なんて作品だってあるわけでしょう。私の作品はこんなに長く続けてるのにまだ…ねえ…」とおっしゃっていて、これがどうも謙遜ではなく本気でいじけているようだったので、そんなことはありません、すごいことです、と私は何度となく力説してきた。

「世代を超えて〜」というのは同作においては単なるキャッチコピーではなく、事実である。現実に起きていることだ。編集部に届くファンレターの内容が他の作品と様子が違う。「大好きです、応援しています」といったメッセージの先に、必ずと言っていいほど同作が文字通り世代を超えて行く様が綴られるのである。「中学生になった娘に『風雲児たち』を勧めたらすっかりのめりこみまして……」「私が受け持つ社会科の授業で漫画を使わせてもらったところ、生徒たちの反応が通常の授業の時とはまるで違い……」といった具合に。同様のお手紙を私はいったい何通先生に転送しただろう。

先生が療養生活に入られてからもファンの声が途切れることはなかった。先生の入院先の医師の中に同作の大ファンの方がいらしたそうで、お子さんが『風雲児たち』にハマり成績が飛躍的に向上、みごと難関校に合格したという話を一時退院中の先生からうかがった。私は心が汚れているので、こういう話を聞くと「いやいや、予備校のパンフレットじゃないんだから」と言いたくなるのだが『風雲児たち』に関してはさもありなんと思う。先生が見せてくださったメールには「医師の立場でこのようなことを申し上げるのもはばかられますが、みなもと先生だと知ってどうしても一言お礼を申し上げないわけにはいかず……」という前置きとともに、上記のことが綴られていた。さらに、先生が最後に入院されていた病院の同室の患者さんの中にやはり年季の入ったファンの方がいらして、先生と意気投合。その患者さんが退院されるまでお二人で大いに語り合っていらしたという話を奥様から伺った。

先生が行く先々で生身の、しかも熱烈なファンと遭遇する確率の高さは異常である。これは先生の類まれな強運からくるものではなく、熱心なファンがいたるところに実在するからだと考える方が科学的だろう。たしか荒俣宏先生がみなもと先生へのインタビューの中で「ファンダム」という言葉を使われていたが、担当編集の私から見ても『風雲児たち』のファンダムの広大さと堅牢さは驚くべきものがあった。事実上の公式サイト「風雲児たち長屋」は熱心なファンの方が運営している。先生もこのサイトを大切にされていて、公認というより、もはや先生ご自身が長屋の一住人としてファンの方々と情報交換されていた。よく編集者は作家の伴走者だと言われるが、40年間、先生の側を片時も離れずにいたのは編集者ではなくファンの方々だ。

同作の売上とファンダムのありようが怪物的であったのと同じく、その作法も法外なものがあった。岡田斗司夫先生のYouTubeチャンネルで、みなもと先生ご自身がおっしゃっているように、先生は「ネームをやらな」かった。漫画は[ネーム→下描き→ペン入れ→仕上げ]の順で完成する。ネームというのは最初にコマ割りや台詞を決める、漫画にとっての設計図のようなものだ。漫画というのは手間のかかるものだから、特に連載作品の場合、締め切り間際になってから編集者が漫画家に大幅なやり直しを強要したり、逆に漫画家が編集者の反対を押し切って大改造を強行したりしてモメると原稿が間に合わない。ネームはこうした事態を未然に防ぐ計画書の役割も果たす。巨匠の威光により編集者のネームチェックが省略されるケースもあるが、私の知る限りそれは編集者ではなく作者自身がネームをチェックしOKを出しているということで、ネームは必ず「やられ」ている。みなもと先生はそもそもネームを「やらない」。

『風雲児たち』は整理整頓された教科書的な年表から「落ちこぼれた」ものの中に豊潤なエンターテインメントと人間本来の姿が隠されていることを証明した作品である。誰もが知る偉人の誰も知らないドラマと、誰も知らない人々の普遍的なドラマに光を当て、高尚で立派な感じのする人たちの独占物になりがちな「歴史」を私たち大衆の側に奪い返す試みであったようにも見える。歴史漫画というのは、もしその作者が権威や権力、定説との距離を見誤れば、あっという間にいわゆる「お勉強漫画」になってしまう。先生は「私は『風雲児たち』で歴史のパロディをやっているんです」と明言されていたし、ドラマの演出を手がけた吉川邦夫さんとの対談の中で「今の時代に一つの長編ギャグ作品をこれだけ長いこと続けているのはどうも私だけみたいなんです」と半分自慢げに、半分寂しそうにおっしゃっていた。みなもと太郎は生涯を通してパロディ漫画家であり、ギャグ漫画家であった。『風雲児たち』をこれほどの感動巨編たらしめたのは、間違いなく作者のパロディ精神と笑いであり、不服従はもはや宿命だ。先に述べたように、ネームというのは編集者あるいは自分自身に何らかの「許可」を求めるものであり、これから描かれつつある作品に対し「計画」を自らに強要するものである。先生が「私はネームをやらないので」とおっしゃる時、「漫画は誰かからの許可なしに描いてはならないものだと決めつけられるいわれはない」「漫画は事前の計画に沿って描かれなければならないという法はない」という声を私は同時に聞いていた。つまり先生が商業作品である同作のネームをやらないことは、効率と合理性の呪縛から逃れられない商業作品の制作工程に対するパロディであったとも考えられる。いや、しかし一方で先生は、まさに効率と合理化の象徴ともいえるコピー機を仕事場に導入した最初の漫画家だということを自慢されていたのであり、そう考えると、先生のパロディ作家としての眼差しは、効率と合理性云々ということよりも、常に漫画の描き方の定石そのものに向けられてきたとするのが自然かもしれない。

先生はよく「話があっちゃこっちゃ横道に逸れて収拾がつかなくなるのが私の悪い癖なんだ」と笑っていらした。1947年、京都のお生まれ。落ち着きのない子どもだったという。学校を出てから京都の呉服商に就職し意匠デザインの仕事をされていたが、先生いわく「3ヶ月
No.145 2021/08/28(Sat) 3:07 home
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